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信州の石仏 | ||
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03路傍の石仏と碑石
路傍の石仏と碑石
十王像
この十王像を生み出したもとの宗教である十王経は民間信仰としてはもっとも古いものの一つであるにもかか わらず、ほとんど研究されることなく放置されているので、
この機会にある程度詳しく記したいと思っている。
道祖神像
道祖神はこの地方ではもっとも特徴のある存在である。これは地方によっては道陸神とか、塞の神と呼ばれてその起源は古い。道を守る神、つまり外部から襲ってくる疫病・悪霊・不祥事などを防ぐ神、即ち防塞の神である。これらの神は村の入口・辻・橋のたもとの往還などに立てられている。大方こうした所は子供たちの遊び場であったりするので子供たちとの縁は深く、次第に子供たちのための祭りの神となったと考えられる。このための神像の歴史は非常に古くこの地方では今それとおぼしきものは稀れにしか見ることはできないがこれは室町、鎌倉期に遡るものではないかと思われる。何の神であるか名も分らない原始的な形体の合掌した、仏像とは思われないような神像を見るが、あるいはこれではなかったかと想像されるだけである。
なお原始宗教の名残りである性器崇拝の思想が次第に多産、豊穣から縁結びの神となって元の道祖神と合体したと思われるものがある。また当地方に残る男女の古い相対像で男女並んで合掌する姿のものはその起源は相当に古いことが考えられるのである。多産は労働力に通じ、労働力は豊穣に通ずることを思えば、疫病その他で死亡する人の多かった時代としては、その安全を祈願する対象として、またその頃とくに幼児の死亡率が高く、無事成長を祈る心が、それを祈願する夫婦の形をとった相対像として建てられたとも考えられるのである。また性器崇拝の思想の名残りは夫婦和合の形で表現され、これらの像は江戸初期の松本平には相当大胆な表現のものが数多く見られたのではないかと思うのである。それは僅かながら今日まで残されたものによって類推することができるし、文献によると天正の頃にはすでに男女相対像が現われていたといわれている。
原始形態の男女相対像は比較的自由な相愛の形をとっていただろうことは想像されるが、徳川中斯以降に道徳的基準を儒教、仏教の戒律に置くようになり、幕政から不禁慎とも思われる男女相愛像はしだいに控え目に作られるようになったと考えられる。それは古いものほど表現が大胆であるが、後にいたるほどわずかに肩を抱き、手を握り合っている程度の消極的表現となり、男女とも神道的装束をまとって神格的に妥協をしてきた姿をそこに見ることができる。
いわゆる道祖神の範畴に入るものは、文字碑も含めて今日当地方では約一千体を数えられるが、それだけでも他の地方に見られない数である。
昭和十六年発行のアルス文化叢書第十二巻に、武田久吉博士の著した『道祖神』を見ると、相模地方の古い道 祖神には男女合掌の姿が多い。相模足柄上郡岡本村、または同小田原市荻窪の双体道祖神はその造型から見て、明らかに室町期の時代を語っている。これは伊那地方に残る庚申像の残欠などに見られる足の作り方などに通じるものがあるからである。これは道祖神、特に男女双体像の発生において、どちらが古く、どちらから伝わった
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