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06道祖神の王様
道祖神の王様
その数は一千体以上といわれている松本平の道祖神の中で私はこれこそが、私が見たものの中での王様ではないかと思っている道祖神がある。
もう十年ほど前になるであろうか。当時、人伝てに明科の潮沢に面白い道祖神のある事を聞かされていたので私は機会を得て一人で見に出かけたのである。
五万分の一地図の長野県信濃池田という郡に中央西線明科駅から、潮沢を遡って約四キロほど入ったところに池桜(いけざくら)という地跡を見出することができたが、私の訪ねたのはここである。その頃は今のような道路がなく山に入る五百メートルほどのところで車をすて、かなり急な山道を登ってゆくと池桜である。江戸時代はよほどの山奥であったろうと思われる所である。臼を落したら下まで転ろげ落ちてしまうであろうようなこんな場所に土地の人の話では、すでに鎌倉時代から人が移り住んでいたというから、最初の移住者は戦いに敗れた落人たちか、とにかく他と隔絶して暮すつもりで来住したにちがいない。太古の民族もそうであるように、大昔の人は集落を山奥の高い所にきめていたのは、自然の災害や外敵を防ぐという意味があったものかも知れない。
この池桜の附近に才(さい)の神という地籍がある。才の神は塞(さい)の神で、道祖神のことであるから、そのような地名をつけるからには昔から何か特別の日くのあったこともうかがわれるのである。そのいわれを詳しく知ることのできなかったのは残念であったが、この池桜には昔から道祖神の特別な祭りが残っているというのである。この才の神という名を聞いて故柳宗悦先生とわざわざ山清路行の帰り道を風越峠の難路を廻って手がかりを求めたが遂にわからぬままになってしまったことがある。さてはじめてこの道祖神にぶつかったのであるが、風紀を重んじてのことか藁の苫屋にかこわれていて、前の方に小さな窓のようなものがわずかにあるだけで、中をのぞいて見てもよく見えないのである。たまたま通りかかった村の青年たちの話でこの苫屋は一年に一回作り変えられるのであるが、折角遠くから見にきてくれたのだからといって、みんなで苫屋を取りこわしてくれることになった。そして、このめずらしい道祖神を白日の下で見せてもらうことができたのである。
今までさまざまな道祖神を見てきた私も、その異様さに声をのむ思いがあった。それはあまりに堂々たる男女の抱擁接吻像であり、他に類例を見ない異形なものである。
大きさは七〇センチくらいの丸彫りで、その形態は写真に見られるように、まったく従来の型からはずれた男女相対像である。その形体はいい現わし方もないような半抽象的な原始性をもつが、この像から感じがちな陰えいも、いや味もなく、健康できわめて大らかなものである。いったいこの山上に何百年の間、この壮大とも思われる接吻をしつづけてきたものであろうか、ただおどろくばかりであった。
この本体のかたわらに、すでに磨滅して半壊となり原型をとどめないほど惨めな姿のもう一体の抱擁像がある。男の方と思われる像の腕の造型だけを明瞭に見ることはできるが、それがなかったら一塊の自然石に見間違われるほどの古さをもっている。多分これは原型の像であると思われるのは、村の人の話から、ずっと古い頃、洪水の時土砂におし流されて埋没したものを掘り出して今の場所に据えたといういい伝えがあり、その後改めて新しく現在の像が作り直されたというのであるが、しかしどちらの像にしたところで、それはずっと古い昔に遡ることは容易に想像されるのである。
ここで私の想像が許されるならば、室町末期あるいは戦国の頃最初の像が作られたものではないか。歴史によれば松本平では男女相対像はすでに天正の頃(約四〇〇年前)に作られたという点からもこの像のことを考え合わすことができそうに思うのである。また造型的にいえば、残された男の腕の原始的な造型が室町時代に作られた十王像の手の抽象的な形などに通じるものがあるからである。現在の像でもすくなくとも桃山期か徳川初期までは下るまいと思われるものである。このことが研究されて時代が明らかにされれば現在残存している男女相対の道祖神像としては松本平最古のものと認められるのではあるまいか。この道祖神が今日なお当時の姿をはっきりわれわれに示してくれるものに二つの原因が考えられる。一つは麓の村々と隔絶し、孤立していた池桜の地勢ということ、もう一つは昔から苫屋で囲う風習があったとすれば、それによって比較的永く風雪の磨滅から防がれたのではないか。このように原始的で大胆な造型の同類は旭にも考えら
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