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信州の石仏 | ||
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09信州の名号碑
信州の名号碑
名号碑というのは別項にも述べたように浄土宗、浄土真宗の「南無阿弥陀仏」の六字を石に彫りつけたもののことであるが、信州の田舎にはその数がきわめて多い。私の見た年号が判明していて現存のものは江戸初期のもの、寛文(一六六一~七三)から貞享(一六八四~八八)頃に建てられたものがもっとも古いものであるといえよう。その数が多く建てられたと思われるのは寛政(一七八九~一八〇一)から文化(一八〇四~一八一八)にかけての頃で、全体の四分の一を占めているといわれる。これを見ても百数十年前のこの松本平を中心にした地方は信仰心の厚い淳朴な土地柄であったことが想像されるのである。そして現在古い寺々にはまだ名号碑が多く残っているのに、今日のこの地方はまるで宗教に関心がなくなっているのは、いったい何を語るのであろうか。
時計の振子のように左右に振って止まることを知らないのが人間世界の常の姿であろうが、百何十年という歴史の時間をおいて、情操と理性の間を極端から極端に向かって振幅したこの地方の人間性の変化には驚くべきものがあると思う。
恩師・故柳宗悦先生はこの信州人の生態に興味を持たれていたことが、私には今になっていろいろと考えさせられるのである。それは他県の人々から見れば冷たい理性主義者のように思われている、信州人の半面にある激しい情性というものの二面性である。柳先生は信州に残されたものを歴史的に見て、その両極端の姿を見ることがあって面白いと言われたことがある。信州人のもつ性格の中には微温的な、どちらかといえば中途半端なもりを好まないよくいえば独立自尊、ともすれば全体的な融和を欠くいわば不覇銅介介な生れつきといえる欠点があると考えられた。果してそのような性質が本来的なものであったかどうかは私には疑問なのである。これを長い眼で見ればそれは人間の作り出した環境の影響ではないかと考えられるのである。そのような問題を深く掘り下げることによって、より高度な信州人としての人間の特性を発展させることが将来の課題として考えられるべきであろうと思うのである。しかし、よく考えて見ると信州人の持つプラスもマイナスも同時に人間に与えられたものであるかぎり、欠点であることは否、欠点があればこそ、それが機縁となって開かれる世界のあることを民芸が立証しているのである。これでこそ私は信州的性格の未来を信ずべきであると思っている。
その意味においても信州の石仏はわれわれに多くのことを語りかけてくれているのであるが、とくに私の関心をもつことは随所に見られる名号眸である。この名号碑にかつての信州人の生態を考えて見る必要があるのではあるまいか、とりも直さず民間伝承の石仏や名号碑は信州人そのものをありのままに物語っているからである。
また柳宗悦先生は民芸の在り方を他力宗の教義において説明され、真の工芸美術は宗教に通ずる道であることを明示された。それは画期的な美論であった。そしてそれとともに「南無阿弥陀仏」の名号はわれわれにとって民芸の表徴として深い意味をもつものであることを教えられ、私は改めて名号碑に関心を持つことになったのである。
江戸中期以後に有名な目黒の祐天寺の開山である祐天上人をはじめ、徳本、徳住上人、そして文化の頃、日本アルプス槍ヶ嶽を修業のために初登攀を敢行された播隆上人たちの当地方巡錫につれて、信心
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